葉真中顕の小説『凍てつく太陽』を読んだのは、偶然ではなかったのかもしれません。
舞台が、私が幼少期を過ごした北海道・室蘭だったからです。
平和な時代に、幼い私が見ていた活気ある鉄の町。
しかし、この小説が描き出すのは、同じ街の“もうひとつの顔”でした――戦争、差別、監視、そして人間の闇。
物語を読み終えた私は、かつての街をもう一度、自分の足で歩いてみたくなりました。
戦争末期の室蘭を描いた社会派ミステリー
葉真中顕『凍てつく太陽』は、太平洋戦争末期の昭和20年、北海道室蘭を舞台にした社会派ミステリーです。
主人公は、特高警察の刑事・日崎八尋。彼はアイヌの血を引き、差別と葛藤を抱えながら、戦時体制の中で任務に従事しています。
軍需工場で起きた人体消失事件の捜査から物語は始まり、やがて「スルク」と名乗る人物による連続毒殺事件へと展開。
冤罪により網走刑務所へ送られた日崎は、朝鮮人青年と脱獄し、原野を逃げる。ヒグマとの死闘を経て、彼が見つける「人間の自由と尊厳」の意味が物語の核となります。
室蘭という土地が、この作品では単なる背景ではなく、戦争と差別の現実を映す鏡のように描かれています。
鉄鋼の煙が立ちこめる空、荒涼とした浜辺、民族の交錯する飯場――その一つひとつが、幼い私の記憶の室蘭とはまったく違う顔をしていました。
測量山から眺める「鉄の町」

物語の中で、軍需工場でもある製鉄所は重要な舞台です。
かつて国の産業を支えたこの地は、戦時下では爆撃の標的にもなりました。
私も、まずはその“鉄の町”を見渡したくて、測量山へ向かいました。
山頂からは、白鳥大橋、港、そして今も動き続ける製鉄所の煙突群が見えます。
青い海の向こうに広がる工場群の眺めは、遠い過去の戦火を感じさせるものではありませんでした。
でも、ふと風が冷たく吹く瞬間、あの時代の空気がわずかに残っているような気がしました。
そして、子どもの頃に見上げた“鉄の町”の力強さ。
鉄錆の色取りに覆われ、今も静かに呼吸をしている室蘭の風景に、時間の重さを感じました。

幕西町、遊郭跡を歩く
次に向かったのは、小説にも登場する旧・遊郭街、幕西町。
『凍てつく太陽』では、戦中の影の部分を象徴する場所のひとつとして描かれています。
しかし、現在その面影はほとんど残っていません。
幕西町の坂を上がり、下りしながら、かつてこの辺りには、人々の欲と哀しみが交錯していたのかと思うと、少し胸がざわめきました。

坂のふもとに、古びた煉瓦色の喫茶店「英国館」がありました。
初めて入ってみると、60年の時を感じさせる調度品が並び、どこか時間が止まったような空間。
後で知ったのですが、ここはある映画のロケにも使われたとのこと。
店内のランプの明かりや木の香りが、まるで戦後の時代の残り香のように感じられました。
遊郭街とこの喫茶店に直接の関係はないけれど、時代の流れの中で「続いている何か」が確かにある気がします。
「戦後80年」という節目の年に、私はその“時間の連なり”を静かに見た思いがしました。

イタンキ浜、物語が急展開する場所
『凍てつく太陽』の後半で重要な舞台となるのが、イタンキ浜です。
荒々しい波、広い空、そしてどこまでも続く砂浜。

日崎と朝鮮人青年の運命、物語が大きく動くことに繋がったこの場所を、私は訪ねました。
日差しの中に、浜は本格的な冬の季節の到来を感じさせる空気に覆われていました。
波打ち際に立つと、遠くの白波がまるで過去の記憶のように押し寄せては消えていきます。
写真を数枚撮りました。
そこに写っているのは、ただの海辺の風景かもしれません。
でも私には、小説の中の緊張と希望、そして生き延びようとする人間の意志が、重なって見える気がしました。

「知らなかった故郷」としての室蘭
歩き終えて感じたのは、懐かしさと同時に、知らなかった室蘭の深さでした。
私が幼い頃に過ごした街には、賑わいがあり、港には人の声があふれていました。
記憶にある“戦争につながる場所”といえば、町の所々に残っていた避難壕くらいです。
だからこそ、『凍てつく太陽』が描いた戦中の室蘭は、まるで異世界のように思えました。
特高、差別、戦争、民族の対立。
そんな歴史の影が、この街の地層のように積み重なっていたことを、私はこの小説で初めて知ったのです。
本の中の室蘭を歩くことは、かつての自分の記憶を掘り起こすようでもありました。
そして思います。
たとえ時代が変わっても、街は人の記憶をどこかに残している、と。
葉真中顕の『凍てつく太陽』は、戦時中の北海道を描いたミステリーであると同時に、
「人間とは何か」「民族とは何か」を問う作品でした。
その舞台を実際に歩くことで、私は小説の向こうに“もうひとつの室蘭”を見た気がしました。
そして、その街が私の原点であることを、改めて思い知らされたのです。




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